Football Connection 

笑う門には福来る。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

岡島成行 著 「アメリカの環境保護運動」岩波新書

p2 日本人は古くから自然を愛してきたとされ、私達もそう思い込んでいるふしがある。だが、果たしてそうだろうか。江戸時代まではそうだとしても、明治以降、いったいどれだけの人が自然と人間の関りを真剣に考えてきたのだろう。市民レベルで、また為政者や学者、文化人、どれを取ってもこの百余年、アメリカ人のほうが自然について配慮した生活を送ってきたし、今もそうしているのではないか。そんな疑問もわいた。
 環境問題における日本とアメリカとの関係は、他の日米関係史と同じように、1853年のペリー来航に始まる。
 当時の江戸はかなりの大都市であったにもかかわらず、随所に森があり、日中でも日本橋の近くでフクロウの鳴き声が聞こえたと言う。フクロウに限らずさまざまな野鳥や小動物が数多く繁殖していたのである。
 来航したペリー艦隊の乗組員は、船に飛来する野鳥の数に驚いた。人間を恐れず、無数の鳥がマストや甲板にやってくる。これなら簡単だとばかり、乗組員は鉄砲で打ち始めた。それを見ていた日本人は「なんと野蛮な人間どもなのだ」とあきれて、日米和親条約の付則第十条に「鳥獣遊猟は禁じられている。アメリカ人もこれに服すべし」と言う項目を付け加えた。
 当時アメリカではラルフ・ウォルドー・エマソンやヘンリー・ディビッド・ソローが自然保護思想の基礎を築いていた反面、一般の人は開拓に熱中し、リョコウバトやバイソン、エルクなどを手当たり次第に撃ち殺していたのである。少なくともこの頃までは、日本人の方が自然を大切にし、自然と共に生きていたのであって、アメリカ人は自然を破壊し続けていた、と言える。
 しかし、その後の歴史を見ると、このペリー事件移行は徐々に立場が逆転していく。明治時代に入ると日本人は自然を激しく破壊し始め、アメリカでは逆に自然保護活動が盛り上がってくるのである。
 この百年間で、アメリカの環境保護活動、特に市民運動が大きく成長した。19世紀後半には「シエラ・クラブ」「全米オーデュボン協会」など主要な市民団体が産声をあげ、順調に育っていった。1920年代には組織の全国展開と専従職員の導入が始まり、「プロの自然保護活動家」という存在が生まれてくる。第二次世界大戦後まもなく、50年代には「開発か自然保護か」を巡るいくつかの論争を経て市民団体が飛躍的に会員数を増やし、大組織に変わっていく。団体の運営はちょっとした企業並になりかなり複雑な経営手腕が問われるようになっていった。
 そして60年代には公害の摘発が始まり、市民団体は自然保護から環境全般にわたる保護活動に乗り出す。続く7、80年代は環境政策論を研究するシンクタンクも生まれ、国際的な活動にも進出し始める。こうした市民運動に押されるように、連邦政府も、一部非協力的な政権もあったが、多くは積極的な環境保護政策を打ち出し、特に自然保護部門では世界のトップレベルの政策を取り続けてきた。
 日本はどうだったか。明治時代にはそれでもエマソンやソローが読まれ、漱石や鴎外も文明批判を続けていた。しかし、大勢は富国強兵、殖産興業に押し流され、自然保護や環境保全といった考え方は見向きもされなくなる。足尾銅山の鉱害など、人間の生死に関る公害がかろうじて問題になっただけだった。そのまま第二次世界大戦まで突き進み、戦後はまた国を挙げて「追いつき追い越せ」の掛け声でわき目も振らず生産第一主義で走ってきた。男達は会社勤めに忙しく、町内会の活動やボランティア活動から遠のいてしまう。市民運動や自然保護活動は主として女性に、そして一部の良心的な人に任され、国民全般には広がらなかった。
 その結果、日本全土が大規模な公害に見舞われ、熊本県の水俣市では水銀中毒で500人を越す死者を出し、後に新潟県でも同様の被害が生じる(1990年3月現在で「水俣病」の死者は計1192人)。ココに至って公害被害者は全国に及び、激しい反公害闘争が繰り広げられた。また71年6月のイタイイタイ病の一審判決に始まる四大公害裁判でことごとく被害者側が勝利をおさめ、企業も対応策に乗り出し始めた。
 自然環境も悪化した。各地の山は道路で寸断され、海岸線はコンクリートで埋め立てられていった。わずかに尾瀬の保護運動が成果を上げたただけだった。
 そして、80年代。公害の危機的な状況を何とかかわしながら、経済面で大きな成功を収めたのだが、国民は失ったものが多いと気がつき、自然保護に関心を向け始めた。北海道の知床半島の自然や秋田、青森県境の白神山地のブナ林を保存する問題、島根県の中海・宍道湖の淡水化問題などの論争で、いわゆる保護派の要求が支持されるようになり、政府も市民団体の重要性を認識するようになった。一部の有識者やボランティアの努力で支えてきたものがようやく花開き、21世紀に向けて国民全体の広範な支持で力強い活動が展開されていく可能性をが出てきた、と言う状況である。
 しかしながら、日本の環境保護運動は全国組織と言えどもまだ規模が小さく、大規模な活動を展開するには経験が不足している。アメリカでの環境保護運動の積み重ねを知っておけば、きっと役に立つはずだ。
 一方、アメリカの環境保護運動にも問題が無いわけではない。世界で最も豊かな白人中間層が運動の中心であるため、国内では黒人やインディアンの公害に冷淡であるし、国際的な活動でも経済的に貧しい人々、すなわち「南」の国々の気持ちを理解することが難しいきらいがある。また、比較的単純に成否を決めつけがちで、自分達を「正義の味方」と思い込み、こうした国々の主権を侵してしまう危険性もある。
 そういった弊害を無くすためには、ゆるやかな合議で納得しながら事を運んでいく日本的な方法も検討されていい。日本の環境保護運動がもう少し力をつけて、政府や経済界の行き過ぎをチェックし、国際舞台でリーダーが勤まるような分野が出来れば、世界の環境保護運動にも刺激をもたらすはずだ。
 環境問題は人間が原因である。その中でも産業革命以後、特にココ50年の人間達の責任が重い。「より早く」「より便利に」と、常に前へ前へと突き進む考え方に問題が出てきたようだ。私達の日常生活を支えている「近代ヨーロッパに基盤を置く合理主義文明」といったようなものが、各所でほころびてきたと言えるだろう。
 環境問題を解決するためには、技術の進歩や法律の改正だけでは追いつかない。国家を中心とした世界の枠組みや、人々が生きていくためのものの考え方に大きな変革が必要であり、新しい哲学が求められていくるはずである。

------------
まだ、メモすべき文章はあるが、力尽きたのでここまでです。今日は。
大学の時に買った本で、今あらためて読んでみたら、すっと入ってきます。
特にそれが顕著だったのが上記のメモです。大きな哲学の変革が起こりますし、起こらなくてはならない。
でなければ、3.11の犠牲者がうかばれない。
経団連などの元に戻そうと言う引力から、重力開放されなくてはならない。

======================
追加分。
p26
いくつもの団体を訪ねたが、日本では想像も出来ないような大きな構えが多いのに驚く。霞ヶ関ビルの一つの階全部を借り切ったほどの規模で活動を展開している団体がたくさんある。
 日本にも各地に様々な環境保護団体があり、独自の運動を続けているが、アメリカとの最も大きな違いは全国組織の数が少なくて力が弱いことだ。地方での小さな団体が独立性を持って存在することはいいのだが、全国組織が弱いと、グラス・ルーツ(草野根運動)の声を結集して全国的な力にしていきにくいと言う欠点もある。
 例えば、石垣島のサンゴ礁をつぶして飛行場を作る計画について、全国のかなりの人や団体が反対の意向を持っているはずだが、なかなかその声を結集できない。そうしているうちに、利益がらみの人たちがまとまって動いてくる。地元と中央官庁の一部と企業が結びついて、それに携わる人達は給料を貰って自らの仕事としてがんばる。
 これに対し、反対派の殆どは無給のボランティアだ。義憤のような気持ちが元となって働いている。環境を守る仕事は金にならない。それだけに広範な支援を必要とする。その支援が無ければ、反対運動などは人たまりも無くひねられるのが普通だ。石垣島の問題はそれでも賛否両論が戦わされていて、まだまともな論議が行われているほうだが、これまでの日本の自然破壊については、環境保護の立場からのチェックや市民の立場からのチェックがあまりにも無さ過ぎた。
 こうした状況を作り出してしまった原因のひとつに、環境保護団体の力不足が挙げられる。特に全国的なネットワーク作りが遅れていたことが響いている。
 全国的なまとまりがないと、国際的な活動についても動きが鈍くなりがちだ。国際組織が日本のどこに連絡を取ったらよいか分かりにくいし、日本からのアプローチも言葉や資金の問題などで難しくなる。
 日本にももちろんいくつかの全国組織があり、それぞれが血の滲むような努力を重ねているのは事実だが、アメリカと比較してみれば、それがいかに非力かと言うことがよく分かる。
 「全米野生生物連盟」が発行する『90環境団体一覧』によると、学術団体、政府機関、業界団体などを除く、民間の全国規模の環境関連団体は442ある。そのうち、釣り、ハンティング、キャンピングや登山、庭造りなどのアウトドアー関連の団体が34。変わったところでは「アウトドアー作家協会」といったようなものもある。また環境教育の団体だけでも11あり、環境専門図書館が2つある。ともかく多種多様である。
 規模でいうと、環境保護活動を主目的とする市民団体では「全米野生生物連盟」が最も大きく、会員が580万人。とてつもなく大きな組織である。そこで発行している『野生生物』という月刊誌は当然のことながら500万部以上でている。ついで、「グリーンピース」85万人。「世界自然保護基金アメリカ委員会(WWF・US)」67万人。(省略)などとなっている。
 このほか、有名な「ナショナル・ジオグラフィック協会」は1080万人の会員を抱え、会誌ナショナル・ジオグラフィックを通じて良質な自然の美しさを一般のアメリカ人に伝える役を果たしている。(省略)
 これに対し日本でいちばん大きいとされる「日本野鳥の会」の会員が2万9500人(90年8月現在)、また自然保護運動を引っ張っている「日本自然保護協会」が1万5000人にすぎない。
 会員50万人と言う短大の規模はかなりのものだ。年間の収入だけとっても「全米オーデュポン協会」が50億4000万円、「シエラクラブ」が44億円である。これだけ大きな組織が、GNPで日本の1.7倍、人口で2倍のアメリカに10以上も存在するのである。しかも予算の殆どを市民の会費と寄付でまかなっている。言い換えれば、アメリカの市民はそれだけ環境保護のために自分の金を出しているのである。
 (省略)単純計算では2700万人近くが自然愛好派なのだ。少なくとも環境保護団体の900万人は積極的な環境保護派であって、問題が起こったときにはかなりの行動をとる。国会議員の投票にも影響を及ぼす。実際、選挙の時にはかなりの団体が環境保護に協力的な候補を「推薦候補」として公表している。900万票、いやそれ以上の力を背景にした圧力団体なのである。

原点をさぐる
p39
ヨーロッパや日本と違って、アメリカは建国以来、自然とは密接な関係にあったのである。長い歴史がって、国家の中枢の人たちが都市生活者であった国とは、おのずから違うのだろう。国家は自分達でつくったのであり、自然と闘い、開拓し、築いて来たのである。大統領も市民も、誰もが自然の恐ろしさや美しさを良く知っている人達なのだ。
 それと共に、アメリカ人の自然観の中にはナショナリズムの影があることを指摘しておきたい。アメリカは長い間、ヨーロッパから「アメリカにはシェークスピアもない。バッハもない。絵画も建築物も見るべきものがない。あるのは野蛮だけだ」と言われ続けてきた。そのため、アメリカ人はヨーロッパに対抗できるものを懸命に捜し求めるようになっていた。
 ところが、開拓者が西に向かって進むにつれて、大陸の豪快な自然が人々の前に提示されてきた。それこそヨーロッパには無いものであり、アメリカが胸を張って自慢できるものであった。アメリカ人にとって自国の豊かな自然は、わきあがる愛国心を十分に満足させるものだったのである。
 こうした自然環境の中で、未知なる物に向かって突き進む精神、そして「何でもやってみよう。ダメならやり直せばいい」と言う気風が生まれてきた。

公害問題の摘発
p145
アメリカでも農薬の過剰使用の影響が出始めていた。ロスアンゼルスのスモッグが深刻になり、新しい公害である光化学スモッグの存在が指摘されていた。
 1962年、女性海洋学者で作家のレイチェル・カーソンが『沈黙の春』を発表したのは、ちょうどそんな時期だった。カーソンは問題を化学薬品と農薬に絞り、豊富なデータを使って薬品漬けになっているアメリカの文明生活に鋭い警告を発した。
 発売と同時に大きな反響を呼び、半年で50万部以上を売りつくすというブームとなった。当然、化学産業会を中心とした反発がおき、『沈黙の春』は非科学的だと非難され、カーソンは「ヒステリー女」とののしられた。著名な化学者も随分とカーソンを批判したのである。これはちょうど日本の水俣病問題の際、東京の有名大学の教授が加害者の化学会社から頼まれて企業側に有利な研究発表を繰り返していたのとよくにている。
 だが、4年間、アシスタントと共にじっくりと調べ上げたデータは正確だった。1年もたたないうちに反論は殆ど姿を消し、政府も『沈黙の春』で指摘された問題点の改善に乗り出し始めた。ケネディ大統領もこの本を読んで感激し、すぐにホワイトハウスで環境保全会議を開いた。そして自らも夏を過ごすマサチューセッツ州のケープコッドを国立海岸に指定するなど、環境保全に力を入れた。
 カーソンは1907年、ペンシルベニア州のピッツバーグ近郊で生まれ育った。子供の頃は体が弱く、母親がつきっきりで育ててくれた。2人のルーズベルト大統領やディビッド・ブラウアーなどと同じようにいつも孤独で、自然と対話を繰り返す子供時代をすごしたのである。
 ピッツバーグのペンシルベニア女子大学を出た後、ジョン図・ホプキンス大学の発生学および海洋生物学の大学院に進学した。海は彼女の夢だった。
 大学院を出て5年後、連邦政府の漁業局に入り、以後18年間、公務員生活を送った。途中、局の方針と合わず、やめようかと何度も考えたが、父の死後、一家の家計を支えてきたこともあって思いとどまっている。しかし1951年、処女出版の「われらをめぐる海」が売れて文筆業一本に踏み切る。
 第2次大戦後、「全米オーデュポン協会」が農薬公害のキャンペーンを張った。カーソンはこれに注目して1958年から「全米オーデュポン協会」とともに極秘に農薬調査を始めた。それから2年間、全精力を傾けたが、そのとき、彼女は悪性腫瘍にも苦しめられていた。さらに2年間の準備を経て、『沈黙の春』は世に出た。
 そして、沈黙の春の出版後、腫瘍が悪化し、カーソンは1964年春、静かに息をひきとった。彼女は命にかえて、公害や環境問題の重要性を広く一般に教えたのである。
 この本は8年後に全米を揺るがす「アースデー」の発端となり、それがまたストックホルムの国連人間環境会議を呼び起こし、さらに国連環境計画の設立に結びついていく。

===
神がいるかは知らないが、カーソンはまさに人類を救うべくこの世に遣わされたのだとしか解釈のしようがない。
それにくらべ、日本の政治のなんと、魂の、情の、知恵のないことか。
情けなくて涙が出る。
絶対に変えてみせる。今は些細な行動しか出来ないかもしれないけれど、堅い壁にじりじりと穴を開けるように少しずつやる。



■素人■
スポンサーサイト
  1. 2011/06/26(日) 22:22:32|
  2. 読書メモ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

■素人■

Author:■素人■
笑門来福

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (11)
環境保全(流域保全と脱原発) (33)
こらむ (113)
W杯 !! (9)
読書メモ (4)
言の葉ステーション (3)
お知らせ (4)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。